「平気でうそをつく人たち: 虚偽と邪悪の心理学」を読んだ感想と、利己の肯定について

投稿日:2019年6月12日
更新日:

精神科医、ペック先生の邪悪本「平気でうそをつく人たち」の感想です。

臨床に現れたプロが匙を投げるほどの「邪悪な人たち」。他人をスケープゴートにし罪の転嫁する彼らは、異質な者かと言えばそうではなく、堅実な市民、日曜の学校の先生、警察官、銀行員であり、ほぼ日常で接している存在。ただ表面化しない。

日本では1996年に出版され、今なお新規レビューがアップされるほど読み継がれている本。「モンスタークレーマー」「モンスターペアレント」など「モンスター〇〇」が話題になったとき参考として挙げられているイメージです。

M・スコット・ペック著(森 英明 [訳])

  • 出版アメリカ:1983年
  • 邦訳日本:1996年

People of the Lie: The Hope For Healing Human Evil

手に取った理由は、「利己の肯定方法」を知りたいから。

「利己」は強い言葉に見えますが、小さな嘘、良いウソなども含みます。必要悪として嘘を利用し、肯定できる理由が知れたら と今いろいろ読んでいる中での一冊を感想と共に紹介したい。

本の概要

精神科医であるペック先生が実際に臨床した患者たちを例に、「邪悪」という枠の研究が必要だと訴える内容

プロが匙を投げるレベルの濃い人々に向き合う姿勢と、"彼ら"の思考をプロ目線でひも解いてく。解けば解くほど彼らの存在が人の本質なのではと思えてしまう。

構成の流れ

邦訳された本著は、全6章で構成されています。

  1.  ペック先生が言いたいことの"触り"
  2.  過去の患者からの例(これが面白い)
  3.  「つまりこういうこと」

この流れで様々な患者パターンの話が出てくる。最後の6章で「邪悪な人たちへの愛の必要性」を説き帰結。決まったロジックで進むので思考が繋げやすく、読みやすいと評価される所以だと思います。

そして出てくる臨床の実例が濃いです。時間を忘れ一気に読み終えてしまいました。

読み進めるのに難点2つ

  1. 説明不足
  2. 古さ

まずエビデンス的な説明がありません。作者がもつ権威性※を利用し話が進められます。ゆえに作者だけの考えなのか、心理士の間で通説的に語られていることなのか素人目でフワッとします。恐らく後者ですが。

例えばジョージの話

例えば第1章では、幼少期の"排泄のしつけ"が失敗していた点からジョージは強迫神経症患者になったとあります。しかし「排泄しつけの失敗=強迫神経症患者」の繋がり理由は説明されません。

これは当時、通説で扱われてきたフロイトの肛門期が理由だと思われますが、そういう「参照」がないです。ジョージの例は現代科学の部分には繋がりがありません。あくまで当時の心理療法ベース

現代:セロトニンの減少に関係があるとする「セロトニン仮説」

僕が大事だと思うのは、患者の背景と臨床の話です。よってペック先生が何を元にし患者と向き合っていたかの指針は関係ないと思いますが、そんな感じの"力技"で進めるところに引っ掛かりと、35年前の本ということで情報の古さは否めません。人の普遍性が変わらないとし個人的に得られたものが大きい本ですが、理由を気にする人は調べるのが大変かもです。

悪には定義もなければ、犯罪者と規定することは不可能である

第2章からの引用

この世になぜ悪があるのかは何度も質問を受けたことがある。ところが「この世になぜ善があるのか」という質問を発した人はこれまでいない。ー中略ー

一般に、子供がうそをつき、物を盗み、ごまかしをはたらくことは、日常的に目にすることである。こうした子供たちがまったく正直な大人に成長しうるという事実のほうが、まさしく驚嘆すべきことのように思われる。勤勉よりも怠惰のほうが広く一般にみられるものである。こうしたことをまともに考えるならば、この世は本来的には悪の世界であって、それがなんらかの原因によって神秘的に善に「汚染」されていると考える方が、その逆の考え方をするより意味をなすのかもしれない。

第2章 悪の心理学を求めて p55

この語りから入る第2章「人は根本的に性悪説ベース」の考えに共感を与えたところから、邪悪な人たちに対する定義がないことの問題と、定義を作ることの難しさを切実に語っている点にもどかしさを覚えます。

定義がないことの問題は、大きく二つの理由が書かれている。

  1. 犠牲になっている人たちを救う難しさ
  2. 邪悪な人たちそのものの治療にあたれない

あくまで、犠牲になった人に対するケアの研究はできても定義がなければ上二つは難しいとある。

それから現代の定義らしきもの「〇〇パーソナリティ障害など」が見えている背景を考えてグッとくる。研究者の方々が苦労して道を作ろうとしているところは、第6章にも書かれていた通り、より多くの人に浸透すべきであろうと感じた。

何が"正常"か?

一般的には、大多数からしての正常が、世の中の正常である。

本に出てくる「クリスマスプレゼントとして兄が自殺した銃を弟ボビーにプレゼントした両親」、「決められた道を歩むしかないロージャーのかなしい話」、そして「予想の斜め上から攻めてくるシャーリーン」など、彼らの「100%で自己を肯定するしかできない生き方」は、本人たちが感じてようがなかろうが、それはそれで息苦しそうではある。共依存など辛そうだし、幸せの定義からして違うだろうから真には理解できないけど。

しかし銃をプレゼントされたボビーには罪はなく、その行為を行った両親は間違いなく罪深い。なのに犯罪者ではない気持ち悪さ。

彼らは自分は非難の対象外だと本当に心から思っていて、「自分自身の罪悪感に耐えることを絶対に拒否する」自分の悪は必ず否定しなければならないため、自分の悪を世の中に投影する技術をみんな一貫して持っている。

第2章にあったように悪が人間の本質であれば、あなたのすぐ隣にだって彼らは現れる。5章では集団の悪にも言及がありますが、怖いのは社会的にも自然に僕らは巻き込まれたり、邪悪側になったりもする。

ここまでくると、もうお互いがそれぞれ正常なんだと思う方が健全な気がするわけです。思うのは、正義とか悪を線引きするのはそれこそ危険な思考で、どうやって相対するかだけを見るほかないなぁ、と。

どうやって彼らと相対するか

ペック先生自身は愛を持って悪を!!という勢いですが、邪悪と相対することは自らを大きな危険にさらすことになると警告している。しかも読み手向けというより若い心理療法家に向けたもので、プロが同業のプロ相手へ行う警告でした。

「抵抗」や「反対転移」との戦い方をしらない、精神力の弱い療法家が影響を受けやすいからとしている。つまり素人は逃げるしかない。出くわしたら、逃げるw

この本からは残念ながら相対する方法は得られません。なぜならプロが混乱し、丸め込まれるから。

邪悪な人間に出会ったある女性は、自分に生じた混乱を「突然、自分が考える能力を失ったかのようだった」と書いている。

利己の肯定について

本のテーマとして書かれている「邪悪な人」は自己肯定が100%で、そもそも「頭の中に相手がいない人たち」であり、利己は自動的にすべて肯定になるシステムのようです。

相手がいない状態を参考にするには、例えば「全人類がヴィーガンの世界」で考えたら分かりやすいかなと思いました。僕は肉を食べますが、一般にヴィーガンは動物という相手を考えて、肉を食べる行為を排除します(例外あり)

僕は肉を食べるときに動物にまで考えがおよびません。相手を考えずに自分の欲を満たすので、これは本著にある「邪悪」というカテゴライズと僕自身を同じ存在にできると考えます。全人類ヴィーガンだけの世界に肉を食べる僕が現れても、悪とする法がない状態。

つまり無意識で相手を考えるラインの線引き調節こそ「利己の肯定方法」に繋がるのでは?と思っているところです。責任と、確固とした自分の行動指針を設けるなどでしょうか。

 

利己の肯定として全人類をヴィーガンで考えましたが、本に出てくる邪悪なる人たちも、一般に正常と言われる人たちと同じ世界にいるから邪悪と見なされる。

彼らは自分一人だけの世界で生きているんだろう。ロージャーとシャーリーンの話が個人的にはもどかしく印象的なエピソードでした。

-読書感想

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